迎春記

― 手持ち無沙汰なあなたに贈るゲイの小噺 ―

残業するなら職場でしたい

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ようやく仕事に終わりが見え始め、20時前には家に着けそうだと頭の中で帰宅の見積もりを立て終わったあたりで、上司から電話がかかってきた。

 

「ごめん。ちょっとお願い事があってさ」

 

いやな予感しかしない。

 

「今お客さんのところで使ってる装置、動かなくなっちゃったみたいで、明日届くようにうちにあるやつを急ぎで送ってもらえる?」

「えっ...今こっちにあるものは、試験で全部稼働中ですけど」

「倉庫に新しいの届いてないっけ?」

「ありますけど、ソフトとか何もインストールされてないですよ」

「あ、じゃあその作業もお願い」

 

製品の在庫のある倉庫から新品を持ってきて、ソフトウェアのインストール、梱包、宅急便を手配してそれを送る。残業時間に始める仕事じゃないよなと思いつつ、断れない。"お客さん"というのが、拒否権を消滅させるキーワードだということは、僕がこの部署に配属されて最初に学んだことだ。これはお願いじゃない。業務指示なのだ。

 

新入社員の頃、尋常じゃないスピードで仕事を片付けていく上司たちを尊敬のまなざしで見ていたのだが、その裏には無茶ぶりに耐える中堅社員の存在があるということを、入社7年目になった今、自らが身をもって痛感するようになってきた。

 

見積もっていた帰宅時間に修正をかける。今すぐ着手しなければ、終電も危ない。片付けようと思っていた作業を中断し、台車をもって製品在庫のある倉庫に向かった。

 

 

全て片付いたときには、時刻は22時半を回っていた。席に戻りパソコンをスリープから起動すると、編集途中だったExcelファイルが僕を出迎える。

 

はぁ...

 

思わずため息が出た。

 

結局この仕事片付かなかったな。明日は在宅勤務にしようと思っていたのに、また出勤しないと。

 

2回目のため息が出そうになった時、後ろから声をかけられた。

 

「どう?作業、うまく進んでない?」

 

部長だった。

 

最近の部長は、"うまく進んでる?"ではなく否定形で聞いてくるようになった。それだけ上手く進んでないのが当たり前になってきている証拠だ。

 

「何か客先で装置が動かなくなっちゃったみたいで、今うちにあるの送りました」

「そっかー...」

 

落ち込む部長の顔も見慣れてきた。上司の話では、進捗が悪いせいで部長のさらに上の人から最近はかなり絞られているらしい。体力的な疲れが大部分を占める僕と違って、部長の疲れの大部分は精神的な疲れなんだろうなと思う。

 

「でもありがとう。遅くまでお疲れ様」

 

部長は弱々しい笑顔を浮かべながら、いつものひな壇席に戻っていった。

 

 

部長が去った後、僕は何となく大学の研究室のことを思い出していた。

 

修士1年目。先輩の修論の執筆が佳境に入ったころ、実験室で夜遅くまで作業した時も、研究室に戻れば誰かしら先輩が残っていた。そして僕より先に帰る時は、普段あまり話したことのない先輩でも去り際に「お疲れ」と言って研究室を出ていくのだった。

 

あの「お疲れ」の後には、"お互い大変だけど、一緒に頑張ろうぜ"という、声にはならなかった続きがあるような気がして、僕は好きだった。

 

部長の「遅くまでお疲れ様」にも同じような続きがあった気がする。

 

大変な時期だけど、一緒に乗り越えよう。そんなところか。

 

ふっと疲れが抜けた。

 

無茶ぶりをしてきた上司に対するイライラが、それを一人でやり切った達成感に変わった。

 

単純かよ。自分。

 

でもこういう一言が地味に大きい。古臭いかもしれないけど、一緒に闘う仲間がいるんだという"共闘感"が得られる瞬間がたまには欲しい。テレワーク主体になってからそれが減ってきていた気がする。

 

やっぱ残業するなら会社がいい。

 

 

明日も出勤する。きっと定時で上がれない。でも何故だか頑張れそうな気がする。

 

時計を見ると23時を少し過ぎたところ。小走りで駅に向かえば、終電の1つ前に乗れそうだ。パソコンの退勤ボタンを押すと、それを合図に少しだけ口元が緩んだ。

 

きっといま僕は、ひな壇へ戻っていった時の部長と同じ顔をしている気がする。弱々しく疲れ切った笑顔。でもそこにほんの少しだけ前向きな表情が混ざっていたということに、僕は今になって気がついた。