迎春記

しがないゲイの日常

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#渋沢栄一『現代語訳 #論語と算盤』(#63)

2025年の6冊目です。新札ブームの時に買って、長らく積読状態だったものをようやく読みました。

内容

「国が栄えるためには経済活動が必須であり、それと同時に正しい道徳も持っていなければならない」という渋沢栄一の考えが書かれた本。渋沢氏の講演の口述筆記を梶山彬がテーマ別に編集して1916年に出版した。

当時の日本の商工業者たちの間には、江戸時代の悪しき慣習がまだ残っていて、道徳というものは武士の身分のものが重んじるもので、そんなものを大事にしていては商売は立ち行かないと考えていた。

ヨーロッパの商工業者は、互いに個人でかわした約束を尊重し、損害や利害があったとしても、一度約束した以上は、必ずこれを実行して約束を破らない。...(中略)...ところが日本の商工業者は、いまだに昔からの慣習から抜け出せずに、ややもすれば道徳という考え方を無視して、一時の利益に走ってしまう傾向がある。これでは困るのだ。

この日本の商工業の実情を見て、渋沢は商工業においても道徳の重要性を訴える。

国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない。

そんな渋沢栄一の「士魂商才」の精神がわかる本。の現代語訳。

感想

「お金稼ぎ」と聞いてあまり良い印象を受けないのは、今でもあまり変わっていないと思う。私が思い出すのは、新人教育で「会社とは何か」という話をされたときのこと。おそらく人事担当の社員から「会社の目的は利益を上げること。つまりお金稼ぎをすることです。お金稼ぎと聞くとあまり良いことに思わないと思うんですが、決してそうではありません」という話をされたのを今でも覚えている。今でも覚えているのは、当時の私はその話を聞いて違和感、というか抵抗感に近いものを感じたから。どうしても自分の感覚とマッチしなかった。それは「誰かが得をすれば、その分ほかの誰かが損をする」という思いがあったからだと思う。

しかしそれはもちろん間違っている。お金を稼ぎたいと思うことはごく自然なこと。それは本書の中で渋沢氏も述べていて、渋沢氏はさらにまっとうな性質のものの限りにおいて競争や格差も肯定している。

国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々は日夜努力するのだ。その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。

ここはかなりドライに感じる。でもこれが事実だとも思う。そしてこの事実を宿命だと諦めるための鍵は、本書に出てきた「本分」という言葉。

逆境に立たされた場合、どんな人でもまず「自分の本分(自分に与えられた社会のなかでの役割分担)」だと覚悟を決めるのが唯一の策ではないか、ということなのだ。現状に満足することを知って、自分の守備範囲を守り、「どんなに頭を悩ませても結局、店名(神から与えられた運命)であるから仕方がない」とあきらめがつくならば、どんなに対処しがたい逆境にいても、心は平静さを保つことができるに違いない。

より高みを目指して努力する一方で、自分の限界を本分や天命と言った言葉で受け入れる覚悟を決める。私はまだこの覚悟を決めるのが怖い。論語で語られる孔子先生でさえ"四十にして惑わず"と言っているのだから、まだまだ時間がかかりそうである(でもそろそろか...)。


481社もの会社の設立に関わり、後世「日本資本主義の父」と呼ばれ、今では一万円札紙幣の顔ともなった渋沢栄一。そんなバイタリティ溢れる人生を送った渋沢の最期の姿が、まさに私の目指す姿であったので、これを最後に抜粋する。最期を看取った孫の敬三がこう回想している。

そして祖父のいよいよ最後が来る時には、一面非常に悲痛な感じがありましたと同時に、他面『ああ、これでよいのだ』というむしろ安らかさが湧き起こりました。譬喩はいささか大げさに過ぎるかもしれませんが、ちょうど太陽が西山に後光を残して沈みゆくときに感ずるような、美しい淋しさと大自然への還元というような安心さえ覚えて、死後の冥福を祈るとか菩薩を弔うとかいう感じは更になく、かえって安らかな信じきった或る物に頼りきるという感じで一杯でした。

私もその時がきたら太陽が沈むようにいきたい。