迎春記

しがないゲイの日常

MENU

あやうく切るところだった

ドラマ『パンとスープとネコ日和』の中で、小林聡美演じる「アキコ」が、加瀬亮演じる寺の若住職「フクサコ」にこう語るシーンがある。

「時間は知らない間に、人や場所を変えるような気がします」

この言葉にどれだけ救われた思いがしただろうか。

ゲイデビューをきっかけに、それまでの友人関係をバッサリと切ってしまったあの時の僕は。

ゲイデビューしようと思ったのは、大学院に入って修士1年目。ちょうど就活の準備が始まろうとしていた頃だった。

自己分析本の質問に答えていると、研究室の友達からゲイがされたら困る質問をされたときと同じ気分になったのだ。

「あなたの長所は?」

「あなたの短所は?」

そんな質問の答えを考えているときの僕は、「彼女いる?」「好きなタイプは?」「じゃあ好きな芸能人とかいないの?」という問いかけに答えるときと同じだった。

"自分の本音が分からない"

長年ゲイであることを隠すための嘘をついていくうちに、質問されると自分の本心ではなく相手の期待する答えを考える習慣が染みついてしまっていた。

自分を深掘りしていくはずが、気がつけば嘘を塗りたくった分厚い鎧を纏っている。それに気がつくと、自己分析などバカバカしくなってやめた。僕はまだそういう段階ではない。

だからゲイデビューすることにした。

まずは自分の本音が話せるようになりたくて。

ゲイデビューすると友達ができた。

恋愛が成就したときに祝福してくれて、失恋したときに慰めてくれる友達。好きな芸能人を聞かれて、綾瀬はるかだの有村架純だの言わずに、仲野太賀だと言える友達。

自分がそれまでできなかった、そしてこれからもきっとできないと思ってた話をできるようになった時の開放感。それがどれほど大きなものだったのか、きっと研究室の友人たちはわからないのだろう。交友関係の比重が変わるのに時間はかからなかった。

ちょうど無事に就活が終わって、残すは修士論文と学生時代最後の思い出作り。そんな時期の話だ。そんなタイミングで急に付き合いの悪くなった僕のことを、周りはどう見ていたのだろうか。

確かに、急に距離を取ってしまったことに対する罪悪感があった。自分が冷たい人間になっていくような自己否定感もあった。でも、それらを足し合わせても、新しくできたゲイの友達と過ごす時間を犠牲にはしたくないという思いが勝った。

それにそんな後ろめたさを感じるのもあと少しの辛抱だ。大学を卒業すれば研究室の友人たちと毎日顔を合わせる日常は終わる。そうすれば罪悪感も自己否定感もなく、手放しでゲイ生活を謳歌できるようになるはずだ。

そのはずだった。

いざ蓋を開けてみると、手放しになることなどなかった。

新年会、忘年会といった恒例のタイミングだけじゃない、何もない休日でさえ誰かが「みんなで集まって飲もう!」と言い出し、「いつ空いてる?」とこちらが参加意思がある前提での日程調整が始まった。

誰かが結婚すると決まれば、お祝いムービー作りのため、仕事終わりに部屋で一人、本棚に立てかけたスマホに向かって「結婚おめでとう!末永くお幸せに!」と叫ぶ動画を撮らなければならなかった。

「仕事がある」と誘いを断るたびに、自分は行けないライフステージへと進む友人へお祝いの言葉を言うたびに、心のどこかがすり減る音がした。

どうして彼らは卒業してもなお、僕を消耗させるのだろう。

どうして関係を切らせてくれない。

どうして放っておいてくれないのだ。

せっかく6年間もノンケを演じきったのだ。その僕のきれいな虚像を、どうかそのまま本物の僕として心の何処かにしまっておいてほしい。このまま付き合っていてもそれを傷つけてしまうだけ。その虚像と人生を歩んでいく気力など、僕にはもう残ってないのだから。

そんな時に出会ったのが冒頭のアキコの言葉だった。

"時間は人と場所を変える"

僕が研究室の友達からゲイの友人へと交流関係を変えたのは悪いことじゃない。自分が冷たい人間だからじゃない。時間がそうさせたのだ。それは季節の移ろいのように自然のことなのだ。

そう考えたら、なんだか許されたような気分になった。

そして僕は研究室のグループLINEを一切返さなくなった。

僕が手放しで楽しんだゲイデビュー後最初の数年間は、まさに僕が人生で初めて経験する青春だった。たくさんの人と出会い、たくさんの人と別れた。そんな青春の中で、僕はたくさんの"自分"を発見した。

山と本が好きな自分。

めんどくさがり屋なのに、旅行のプランはしっかり立てたい自分。

滅多に腹を立てないのに、自分の車の運転に助手席から文句を言われるとキレる自分。

そんなたくさんの自分を。

本音で付き合う友人や恋人との日々は、毎日が新しい自分の発見だった。そして、新しい自分を見つけるたびに、僕の中にいたゲイというものの存在感が小さくなっていった。

なんだ。"男が好きな自分"なんて、僕の人生に出てくるたくさんの登場人物のただの一人じゃないか。

そんな風に思えるようになった。

まだカミングアウトはしてない。これからもできないかもしれない。だけど、そんなに必死に隠す必要もないのかもしれない。

人に言えない秘密くらい、誰にでも一つや二つあるはずなのだから。

そうやって自分の中のゲイとの向き合い方がひと段落した、つい先日のことである。

母親の番号から電話がかかってきた。

「あ!もしもし?」

「何どうしたの?」

「ちょっと待って!」

「え?」

自分からかけてきておいて、開口一番に「ちょっと待って」とは一体どういった用件だろう。背後では父親が誰かと話す声と、家族以外には吠えまくる実家のトイプードルのけたたましい鳴き声が聞こえている。すると間も無くして、懐かしい声が聞こえてきた。

「しゅん?俺のことわかる?」

すぐにわかった。

ペクだ。

ペクは韓国生まれ、日本育ちの僕の研究室の友達だ。

大学に入って一番最初の授業で声をかけてもらい、そこから同じ研究室を出るまでの6年間一緒に行動を共にした友達。そして、僕がゲイを隠すための嘘を最も多くついた友達。

そのペクと今、僕の母親の携帯を通じて会話をしている。6年ぶりに聞いたペクの声は当時から全く変わっていなかった。

小さい街ながら温泉の湧く僕の地元へは、大学時代に何度か友達を連れてきて、実家に泊めたことがある。だから実家は知られている。今回ペクは、友達と僕の地元に旅行に来た際に、僕の実家に立ち寄ったようだった。

「あー良かった。俺てっきり病んだりして会社辞めて、実家に帰ってるのかと思ったよ!」

仕事で病んだことはあるが、辞めてはいない。それより僕の家族の前で、そんなことをストレートに話すのはいかがなものかと思った。でも、それもペクらしいといえばペクらしい。思ったことはすぐに口に出すところ、僕の恋人とそっくりだなと思った。

ペクとは軽い近況報告をして、「今度飲もうぜ」という口約束をした。

電話のあとは心地よい気分だった。ちょっと泣けるヒューマン映画を見終わった時のような。

ゲイを隠すことに必死で無くなった今、時間と距離があいても自分の近況を気にかけてくれたペクの優しさを素直に受け取ることができたのかもしれない。

学校を卒業して、大人になってから友達を作ることの大変さは、ゲイ生活の中で痛感してきた。ペクのような存在はとても貴重なのだと、今ならわかる。

あやうく切るところだった。

冒頭に書いたアキコの台詞。今ドラマを見返してみたら、あれは寺を継ぐことに違和感を感じて家を出たものの、出戻りして寺を継ぐことにしたフクサコに対してアキコがかけた言葉だった。

"時間は人や場所を変える"

確かにそうだ。

でもそれは決して離れるだけの"一方通行"ではなく、離れていたところから戻ってくることも含めた"双方通行"の意味だったということに今更ながら気が付いた。

ペクとの口約束。数年前だったら永遠に来ることのなかった「今度飲もうぜ」の"今度"が、今ならそう遠くないうちに来るような気がする。

(おわり)