迎春記

― しがないゲイの小噺 ―

山の"津波"【富士山】

かつて山で"津波"を見たことがある。あれは2017年8月10日。富士山での出来事だ。

富士山へは、当時の恋人である『しょう君』、そして2人の友達と登った。友達と言っても、僕がしょう君以外の2人と会うのはこの日が初めてだ。しょう君の飲み仲間の『S』、そして同じくしょう君の飲み仲間で、こちらは僕の会社の同期でもある『Y』である。

この年は「富士山に登りたいね」なんてしょう君と話していたところ、しょう君の飲み仲間に登山が好きなYがいて、しかもYが僕と同じ会社だということがわかると、そのままの勢いで実現した。

僕にとっては人生2度目の富士山だ。最初の富士登山は、小学校の低学年の頃。友達と家族ぐるみで登ったのだが、このときは登頂できなかった。さんざん酸素缶を吸わせてもらったあげく、結局8合目で下山した。

あれから20年。体はすっかり大人になった。ゲイデビューもした。その洗礼で筋トレを始め、脚力もついた。きっと今回は体力面で途中離脱ということにはならないだろう。だから、初めて見ることになるであろう富士山頂に、僕の期待が高まっていた。しかし、登山口の「須走口」に着いたとき、不安が全くなかったかと言われると、全くそんなことはなく、むしろ期待をはるかに超える不安があった。

なぜなら、この日は雨だったからである。

それに加えて、僕が「山頂からご来光を見たい」というリクエストをしたせいで、出発は夜9時だった。須走口にある店先のひさしの下で、暗い地面を雨が打ちつけるのを眺めながら、出発するタイミング見計らっていたが、雨は一向に弱まる気配がない。やがてYが「このメンバーなら体力的には問題ないからゆっくり歩き出そうか」と言うと、一同はできれば使いたくなかった雨装備にヘッドランプを装着して出発することになった。 

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出発前の一枚。ヘッドランプが上下逆。

出発の5合目から6合目は樹林帯である。樹林帯の中のナイトハイク。もちろん、視界はほとんどない。Yを先頭として、僕、しょう君、Sの4人がドラクエのパーティの様に一列になって歩いた。Y以外は登山の経験がほとんどない。はぐれないよう、そして悪い足場に足を取られぬよう、足元をヘッドランプで照らし、Yの歩いた足場を正確に踏み合わせて進んだ。会話はほとんどなかったと思う。

ほどなくして、Sが「ちょっと寒くなってきた」と言い出した。よく見ると、Sの着るレインウェアは、ゴアテックス製のような高機能なものではなく、街中のにわか雨くらいしか対応できないようなただのジャンパーであった。雨ざらしの中、30分は歩き続けたSの袖は見るからにビショビショになっていて、表情も同じくらいしおれている。そんなSにYはザックからNORTH FACEのスペアのレインウェア取り出して着せた。すごい準備。さすがY。

再び歩き出すも、会話はない。僕らは暗闇の中を、ただ黙々と歩き続ける。なんだか修行僧みたいだと思った。果たして、こんな具合で山頂までたどり着くのだろうかとふと視線を上げるが、周囲は暗闇。山頂など見えるはずもなかった。声に出さずとも、Y以外の3人は同じことを思っていたと思う。

雰囲気が変わったのは、6合目を超えたあたりである。樹林帯を抜けたのだ。暗闇を抜け、ほの暗いだけのグレーな世界に入った。低い雨雲を抜けたのか、とつぜん雨も上がった。まだ高いところを流れる雲が、空の大部分を覆っていたが、たまに現れる隙間から綺麗な月が見える。少しずつみんなの会話が増え始め、パーティ全体の空気が緩んだ。ずっと前かがみになっていた僕は、体を斜面に対して横向きにして、バランスを崩さないように注意しながら伸びをする。すると、横目に静かな海原が視界一面に広がっていた。その一番奥には海と空を分かつ水平線がある。...かのように見えた。

ん?なんか変だ。

水平線ならもう少し目線を下げた位置に来るはずなのに、その境界は目線よりも高い位置にあった。まるで海面が重力に逆らって、手前から水平線に向かってなだらかな津波を形成しているような、そんな威圧感があった。疲れているんだろうか。すると、僕の前を歩いていたYが同じように振り返ると、こう言った。

「おー!雲海が綺麗だね」

...ん?あ。これ雲か。

冷静に考えると当たり前だ。下では雨が降っていたんだから。というか、そもそも富士山から水平線が、もとより海が見えるはずがない。そして、一旦僕の頭がそれを雲として認識すると、それまでの時間差が弾みになったのか、何倍にも膨らんだ感動と呼ぶべき何かが僕を包み込んだ。すると、それまで威圧感を放っていた津波が、空に向かって吸い込むように広がる大平原に姿を変えた。

はっと息を飲む。

人は感動した時、本当に息を飲みこむのだということを実感したのはこの時だったと思う。この時の写真が1枚もないのは、レンズ越しで見るとその雄大さが全く伝わらずに諦めたからだったと思う。雲間から差す、柔らかな月の光が雲の凹凸に陰影を作り出し、そこから生まれる立体感のある景色がすっかり僕を飲み込んでいた。これぞ没入感。今日は登頂できるなと、僕は思った。

その後は七合目、本七合目、八合目と空を飛んでいるような気持ちの良い登山が続いた。しかし、その夢見心地は本八合目で吉田ルートと合流すると、唐突に終わりを迎える。一気に人が増え、そこは急に観光地に変わってしまった。そこは"FUJIYAMA"となった。雨の中、Tシャツ、短パン姿で傘を差しながら登る外国人の姿もある。そこからの登山道は大渋滞にだった。道中、レンジャーたちが「途中で止まらないでください!!」としきりに叫んでいた。途中で止まった人にぶつかり、バランスを崩すと危ないからだろう。僕らはもう周りの景色を楽しむような暇などなく、ただただ歩かされた。そんな大名行列に流がされながら、頂上に着いた。

頂上ももちろん、すごい人だかりだった。そして、止まってみて気が付いたのだが、ものすごく寒い。

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皆で寒い寒いと声をかけあっていると、Yが山小屋で缶コーヒーを買ってきてくれた。さすが、登山経験豊富なYリーダー。しっかり、僕らの気持ちを分かっている。しかし、この缶コーヒーがまた熱いこと熱いこと...!素手ではとても持っていられない。しかし、8月のこの時期に手袋なんていらないと持ってきていなかったから、ウェアの袖を引っ張って、缶コーヒーをくるみながら持った。ウェアを通して伝わる熱はまだ乱暴さを持っていたが、この極寒の山頂においては、その熱源でさえありがたみを感じられるものだった。さぁ間もなく日の出の時間である。

東側の斜面には、柵に沿ってズラリと人が並んでご来光を待ち受けている。僕らはぐるりとめぐりながら、ようやく見つけた2人ほどの隙間に、4人無理やり入り込んだ。景色を見下ろすと、僕を感動させた雲海がいる。しかし、明るい光に照らされ、凹凸が消滅すると、それは普段見るただの雲に戻っていた。ご来光が見えないから早くそこを退いて欲しいとさえ思った。 

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日の出方向。結局見えない。

空が十分に明るくなった。もう下界では太陽が出ているだろう。もう少しすれば、雲を突き破って出てくるのではと思い粘ったものの、見物客が1人減り、2人減り、徐々に各人が下山に向かう雰囲気を感じて、僕らも諦めてしまった。頂上での思い出は、人生初登頂の達成感が少しあったものの、ほとんどが寒さとの闘いであった。

下山も楽しい砂走のできる同じルートで下りた。あっという間の下山であった。気が付くと、6合目から7合目にかけてみた真夜中の雲海を超える景色に、僕はついぞ出会うことはなかった。しかし、僕にとってはあの真夜中の雲海で十分だった。 下山した後の僕の満足感ときたら。それは山に魅了された"見習いハイカー"を誕生させるには、十分足るものであった。

今年は新型コロナの外出自粛の影響で、雲海が見られるような標高の高い山に登れていない。ふとインスタグラムのこの富士登山の写真を見返していて、あの雲海の景色が鮮やかに脳裏によみがえってきた。これは...もう完全に"雲海ロス"。