迎春記

― 手持ち無沙汰なあなたに贈るゲイの小噺 ―

カラスと初恋

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カラスの鳴き声を聞くと、その姿を探すようになった。

 

 

きっかけはゴールデンウィーク明けのこと。

 

12日間もあるような長期連休が明けた後は決まって仕事に身が入らない。手を付ければすぐに終わるような仕事をグダグダと後回しにしたり、会議中はウトウト。少しでも物音がすれば、何の音だろうと集中力をもぎ取られ、目の前の仕事はそっちのけ。

 

今年は"STAY HOME週間"と呼ばれ、毎年行くような旅行もしなかったから、それほど日常と非日常のラグは生じていないと思っていたけれど、いざ明けてみると、仕事への身の入らなさは例年通りだった(いや下手したら例年以上かもしれない)。

 

しかし、幸いなことに今年のゴールデンウィーク明けは木曜。木、金と我慢すればもう一度リズムを整えるためにひと呼吸おける。

 

そんな我慢の2日間も終わりの、金曜の午後のことだった。

 

 

「ガァーガァー」

 

外でカラスがうるさい。

 

窓の外、すぐ近くに立つ電柱の頂上で大きなカラスが大きな鳴き声を上げていた。

 

すると、どこか遠くの方で別のカラスがこれに呼応する。

 

縄張りの示し合いだろうか。そこには何らかの意思の疎通のようなものを感じた。

 

仕事に集中できないと、こんなことも気になってくる。

 

幸いなことに今週はそれほど重い作業は残ってなかったから、インターネットを使ってカラスについて調べてみると、街中で見かけるカラスは主に2種類いることが分かった。

 

『ハシブトガラス』と『ハシボソガラス』。

 

え。わかりやすい。

 

その名の通り、くちばしの太いのがハシ"ブト"ガラスで、細いのがハシ"ボソ"ガラス。

 

名前のイメージと違うのは、それぞれの鳴き声である。

 

「カァーカァー」と「ガァーガァー」。

 

くちばしも体も大きいハシブトガラスの方が「ガァーガァー」と濁った声で鳴きそうだが、これがまた違う。

 

ハシブトガラスが「カァーカァー」と澄んだ声で鳴き、ハシボソガラスが「ガァーガァー」と濁った声で鳴く。

 

人は見かけに依らないというけれど、これはカラスにも当てはまるのかもしれない。

 

 

そんなことを知ってしまったから、今朝の散歩ではカラスの鳴き声がやたらと気になった。

 

鳴き声が聞こえると、反射的にその方向へ顔を向けるようになり、やがてそれは段々とクイズ形式になっていった。鳴き声を聞いて、「これはハシブトだ!」といった具合に。

 

僕の近所の散歩道で見かけたカラスは、ほとんどがハシボソガラスだった。クイズの正解率は7、8割くらい。

 

ハシボソガラスの中にも、それなりに澄んだ声で鳴くものもいるようだ。そういう"歌"が上手いものが。

 

ハシブトガラスはほとんど見かけなかった。最後の方に遠くの電柱の上に停まっているものを見つけたのだが、それは鳴いてはくれなかった。でもハシブトガラスの中にも、きっと"音痴"なものがいるのだろう。

 

この"カラス当てクイズ"のおかげで、今朝の散歩は少しだけ楽しかった。

 

ただカラスの鳴き声の違いを知っただけなのに。

 

そんなことを思っていたら、ふと唐突に「セクシャルマイノリティの教育ってやっぱり必要なのかもなぁ」と思った。

 

 

正直な話、学校現場でセクシャルマイノリティに対するジェンダーの授業を実施することの効果については少し懐疑的であった。

 

だって学校で教えられる知識の多くは、興味が無ければそれだけで頭の中に残らないじゃないですか。

 

数学で二次方程式の解の公式を習ったとしても、その公式の導出方法がわからなければ分子の第一項を「-b」ではなく「b」と勘違いしてしまうかもしれないし、日本史の授業で「普通選挙法」が、言論を厳しく取り締まる「治安維持法」を成立させるための懐柔策(いわゆる"アメとムチ")であった背景を知らなければ、両法律がどちらも1925年に成立したという年号も印象に残りにくい。

 

そうした公式や年号の背景にある知識は、「なぜその公式で解が出せるのか?」「どうしてその年にその法律が成立したのか?」という疑問を持つ姿勢により補足されるところが大きい。

 

そして、疑問は学ぶ側の"興味"から生まれる。

 

だから、学ぶ側に興味が無ければ、例えジェンダー論の授業をしたところで、セクシャルマイノリティへの理解が深まらないのではないか。

 

...と思っていた。

 

しかし、カラスの一件でこれは不足のある考えだったと改めて気づかされた。

 

知識と興味の関係性は、興味から知識への一方通行ではなかった。それは、相互にグルグルと往来し、少しずつ上方へ向かっていく"螺旋階段"のようなものだった。つまり知ることがきっかけになって、興味も持つケースもあるということ。

 

"たとえ街中のカラスの様に興味の無いことでも、知識があるだけで見え方が大きく変わることもある"

 

.......となると、小さい頃からジェンダーの知識があったとしたら、もしかして僕の初恋の思い出も変わってくるんだろうか。

 

 

僕の初恋は『理沙ちゃん』という名前の"女の子"だった。

 

理沙ちゃんは大人しい子だった。

 

授業中に挙手をして発言することはほとんどない。指名された時には、今にも泣きだしそうな震えたような小さな声で答えた。休み時間は本を読んでいることが多かったから、僕が覚えている理沙ちゃんの顔はいつもどこか伏し目がちだった。

 

でも、理沙ちゃんは笑顔がとても可愛い女の子だった。

 

僕と理沙ちゃんは同じ塾に通っていたから、行き帰りは一緒に通っていたのだけれど、理沙ちゃんは僕の話で良く笑ってくれた。

 

理沙ちゃんが笑うと、その場でパッとひまわりが咲き、そこだけスポットライトが当たったように明るくなった気がした。丸顔で少しウェーブがかったショートヘアの理沙ちゃんは、さくらももこの描く『コジコジ』によく似ているなと思った。

 

 

そんな理沙ちゃんへの気持ちが「好き」だと確信したのは、小学三年生のとき。静まり返る教室の中で、理沙ちゃんが自分から手を挙げたあの瞬間だと思う。

 

それは「学級委員」を決めるクラス会だった。

 

男女一人ずつの2枠。その女の子の1枠に真っ先に手を挙げたのが理沙ちゃんだった。

 

僕は驚いた。

 

...いや、僕だけではなかったと思う。クラス全員が驚いていたと思う。その証拠に、そのあとで女の子の枠に手を挙げる子はいなかった。

 

まっすぐと、そして堂々と手を挙げた理沙ちゃん。

 

......

 

トゥンク。

 

気が付くと僕も手を挙げていた。

 

理沙ちゃんと一緒に学級委員をやって、あのひまわりのような笑顔をたくさん見たいと思った。

 

理沙ちゃんに続いて、理沙ちゃんに負けず劣らず静かな少年であった僕が手を挙げたことで、3年1組の学級委員は予想外の選抜となった。

 

 

でももし、あのクラス会よりも前にジェンダーの授業があったとしたら。

 

もし、男が男を好きになることも普通だという知識があったなら。

 

僕が学級委員に立候補することはなかったのかもしれない。

 

知識があったら、同級生の男の子を見る目が違っていたはずだから。

 

 

僕が初めて男を意識したのは、小学4年の時だった。相手は中学2年生のヒロ先輩(詳細は下記記事を参照)。

www.geishunki.com

 

まぁ、これは恋愛感情ではなくて、身体への興味だ。間違いなく。

 

僕は男に"恋"に落ちるようになったのは、ヒロ先輩の身体を見た時の衝撃が、僕の中にあるゲイという核心を的確に射止め、自助努力で徐々に増えていった知識に後押しされた恋愛感情が、そこへ足並みを揃えるようになってから。

 

それは僕が高校生のことだった(その話はまたいずれ)。

 

もし、小学校の中盤の、第二次性徴のあたりで学校でジェンダー論の授業があったとしたら、この足並みはもっと早くに揃っていたと思う。そして理沙ちゃんを見初める前に、きっとスポーツのできる男子あたりにお熱になっていたに違いない。

 

 

でも、もう一度あの時に戻って、ジェンダー論の授業を受けたいかと言われれば、決してそんなこともない。

 

その心と体の足並みが揃わない不安定な時期に抱いた理沙ちゃんへ抱いた気持ち、それまで目立つことは避けてきた僕が学級委員を決めるクラス会で手を挙げてしまったあの時の気持ち、それもまた本物だったと思う。

 

だってあの頃、僕は学校へ通うのが楽しくてしょうがなかったですから。