迎春記

― しがないゲイの小噺 ―

『1984年』内容と感想【ジョージ・オーウェル】

『1984年』のあらすじと感想です。

あらすじ

時代は1984年。世の中は生産技術が十分に発達し、物質的な資源の不足はなくなっていたものの、戦争はその性質を変えて長く継続していた。世界を支配するのは三つの大国。ロシアとヨーロッパから成る〈ユーラシア〉、中国とモンゴル、日本列島を含む〈イースタシア〉、そして、アメリカが大英帝国、オーストラリアを併合して成立した〈オセアニア〉である。本作の舞台はオセアニア、その中の〈第一エアストリップ〉。かつて"ロンドン"と呼ばれた場所だ。

オセアニアは〈イングソック(イングランド社会主義)〉をイデオロギーとした全体主義国家であり、その頂点には、党の代表『ビッグ・ブラザー』が君臨していた(※モデルはスターリン)。オセアニアには「自由な言動」がない。党による監視が徹底している。街中だけでなく、個人の部屋の中でさえ設置される〈テレスクリーン〉という送受機によって、言動は絶えず監視されていた。言動だけではない。表情の微妙な変化までも。怪しい挙動、つまり党に対して反発を抱いていると認められた党員はたちまち〈思考警察〉により連行されてしまう。その基準は党次第。オセアニアに法律はない。

また、オセアニアには「自由な思考」もない。党は、思考という人の頭の中にすら制限をかけている。党は「言葉」を狭めたのだ。思考は頭の中で言葉により組み立てられる。その思考の分子のバリエーションを狭めることで、思考を狭めた。オセアニアの公用語は〈ニュースピーク〉である。それは英語(作中では〈オールドスピーク〉と呼ぶ)から語彙を大幅に削減したものである。

さらには、オセアニアには「性愛」すら許されない。党は男女間でコントロールの効かない忠誠心が成立するのを阻止する必要があった。結婚は承認制。任命された専門委員会の承認を得なければ結婚できない。そして、当事者たる男女が肉体的に惹かれあっているという印象を与えてしまうと、決して承認は得られない。結婚の目的はただ一つ。党に奉仕する子どもを作ることだけであった。

主人公の『ウィンストン・スミス』はそんな体制に疑問を持っていた。とは言っても、体制を壊そうという活動家ではない。ただウィンストンは知りたいと思っていたのだ。「今の暮らしは昔よりも良くなっているのだろうか」と。党の生産計画は常に達成され、それは常に上方修正されていた。しかし、それが嘘の発表だということはウィンストンには分かっていた。なぜなら、そのウィンストンこそが、過去の生産計画で発表された数字を修正しているのだから。過去の改ざん。それがウィンストンの勤める〈真理省〉記録局の主な仕事であった。党の生産計画が達成しないことは許されない。だから、ウィンストンたちは実態に合わせて過去の生産計画で発表された数字を改ざんする。しかし、党の発表が嘘であることくらい、記録局の職員でなくとも、分かっているであろう。なぜなら、ブーツが計画通り生産されているはずなのに、オセアニアの人口の半分は裸足で暮らしているのだから。党員には、嘘だと分かっていながら、その嘘を心から信じる能力が求められた。それは〈二重思考〉と呼ばれる党員の必須スキルだった。

ある時、ウィンストンは過去の暮らしぶりを知るため、党員が滅多に近づくことがないプロレタリアート地区へ行った。そこには革命前の、つまり今の体制となる前、資本主義時代を生きた老人たちがまだ生き残っているからだ。しかし、収穫はなかった。そこに住む老人たちが覚えていることは役に立たないエピソードばかり。仕事仲間との喧嘩、家族の死際の表情、なくした自転車用本譜を探した話...。人の記憶は曖昧で不確かなものである。じゃあ何か過去の記録は残っていないのか?それも確実にない。オセアニアに書物は存在しないのだから。

党は過去の書物を徹底的に破棄し、そして新たに記録することも禁じた。例えば、日記を書くことは極刑に値する犯罪である。過去は党にとって、改竄によってコントロールできるものでなければならない。一個人が管理、蓄積してはならないのである。

現在をコントロールするものは、過去をコントロールする

それが党のスローガンの一つであった。

そんな党のやり方に疑問を持っているのは、もちろんウィンストンだけではなかった。それが『ジュリア』という女性だ。ジュリアは、側から見れば熱心な党員であった。〈反セックス青年同盟〉という同盟に加入し、仕事では党から"性本能を自分でコントロールできる"とお墨付きをもらった党員しか抜擢されない真理省虚構局〈ポルノ課〉に所属していた。

しかし彼女の本当の姿は、人並みに(、あるいは人並み以上に)セックスが好きな女性であった。現に、彼女は数十人の党員と関係を持ったことがあった。党の活動に熱心に没頭するのはそのカムフラージュ。それは"小さなルールを守ることによって、大きなルールを破れる"という彼女なりの賢い処世術であった。

やがて、ウィンストンとジュリアは恋に落ちた。そして、ウィンストンはジュリアと身を重ねるうちに、少しずつ人間性の価値を思い出す。

重要なのは個人と個人の関係であり、無力さを示す仕草、抱擁、涙、死にゆくものにかけることばといったものが、それ自体で価値を持っていた。

人間性を取り戻すにつれて、ウィンストンのジュリアへの気持ちは恋から愛へと変わっていった。

しかし、そんな日々は永遠のものではない。ついに二人は逢瀬の場を思考警察に見つかってしまう。そして連行される。"あの場所"に。そこは、法と秩序の維持を管轄する〈愛情省〉だった。しかし、愛情とは名ばかりで、実際には思考犯罪者に対する洗脳や拷問がされる場所である。窓が一切ないピラミッド形状の建物。その建物には、〈101号室〉と呼ばれている恐ろしい拷問部屋があった。そして、そこでウィンストンの恐ろしい"再教育"が始まる。

感想

物語の後半。ウィンストンが〈101号室〉で受けた"再教育"の場面は是非読んでほしい。資本主義で生きてきた僕らからしたら、明らかにおかしな(強引な)やりとりがあるのですが、読んでいるとどういうわけか、相手の言っていることの方が正しいような、説得させられてしまう恐怖がありました。もしかしたら、人の心って簡単にその形を変えてしまうのかもしれない。

そしてもう一つ感じたのが、党が徹底的に取り締まった人間の「思考」と「記録」の持つ強大な力。ウィンストンは、党の歴史の改竄の証拠となる記録を見つけた時の思いをこう綴っています。

「それは証拠だった。あちこちに不信の種を植え付けられたかもしれないよ、勇気を奮って僕がそれを誰かに見せたとしたら。ぼくたちの生きているあいだに何かを変えられるとは思ってない。でもレジスタンスの小さな集まりがあちこちで生まれてくるんじゃないかと思う。...(中略)...それで、次の世代はぼくたちが途中で止めたところから引き継いでやっていけるんだ」

国の体制という土台を変えることは、一世代では成し遂げることができない。活動を記録し、思いを引き継いでいくことで、何世代もかけて少しずつ変容させていかなければならない。これは、人々の"偏見"についても同じことが言えると思いました。

たとえば、僕らがまさに直面している"同性愛者への偏見"。法律や制度の不平等と言った"目に見える部分"に関しては、次第に解消されていくかもしれませんが、人々の間に根付いた偏見は、目に見えなず非常に厄介な相手です。たとえ同性婚を認められる法律が可決されたからといって、人々の頭の中にあるセクシャルマイノリティへの「偏見」が無くなったということの証明にはならないでしょう。人々の頭の中にある偏見は、何代にも渡って思いを繋ぎ、少しずつ溶解していかなければならない。ウィンストンが変えようとした〈イングソック〉のイデオロギーのように。当事者の僕らが思いを言葉(や種々の媒体)にして、「記録」として残していく。それこそ、偏見をなくすための方法なのだと思います。

この記事で紹介した本

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)