迎春記

― 手持ち無沙汰なあなたに贈るゲイの小噺 ―

君の名は"元"ロマン

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「今から多摩川を走ってくる」

 

彼氏からのLINEの通知を見て慌ててカーテンを開けると、外は見事なほどに爽やかな晴れ模様だった。

 

午前中はあんなに雨が降っていたのに。

 

 

在宅勤務になってから、毎朝ふとんを干すというのが日課となっている。

 

このときルーフバルコニーから見る朝の景色が僕のお気に入りだ。高台にあるこの家から見る景色には、眼前に遮るものは何もなかった(つまり帰宅時はいつも上り坂ということ)。

 

まだひんやりとした朝の空気を、聞こえてくる小鳥のさえずりもそのままに胸いっぱい深呼吸をすると、全身の毛穴から眠気も一緒に抜けていった。この習慣は在宅勤務が終わってからも続けようと思っている。

 

しかし、今日はそれどころではなさそうだ。

 

それはすごい雨だった。

 

雷光が地鳴りを伴って空を割り、雨は網戸を貫いて窓ガラスを叩いた。

 

僕は今日が土曜日だということを良いことに、ダラダラとベットに転がり続けることを決め込む。2度寝、3度寝。やがて寝ること自体に疲れを感じ始めて、仕方なくソロソロと起き出した。

 

 

飯を食べる。もう朝ご飯という時間ではない。

 

そのあとで『ヘレディタリー』を見た。面白かった。同じアリ・アスター監督の『ミッドサマー』を見られなかったことが悔やまれる。僕が見に行こうとした3月には、コロナに先を越されて見られなくなってしまっていた。収束する頃には、もう上映している映画館はないだろう。配信が開始されるのを待つしかない。

 

それから気がつくと昼寝をしていた。

 

そして、現在に至る。

 

 

窓の外に広がる晴れ上がった空を見ていると、ふいに「今すぐ外に出なければ」という焦燥感に駆られた。何か大切なものを見逃してしまうような、そんな気がする。

 

時計を見ると午後の4時半。

 

僕はスーパーに買い物に出かけることにした。

 

 

外に出るとふーっと水の匂いがする。外を漂っていた全ての匂いが洗い流された後の匂い。何だろ。滝の裏側を歩いているような、そんな匂い。外の煌めきは太陽の位置が違うだけで、朝のような爽やかさを持っていた。

 

スーパーへは坂を下り切って大通りに出たあと、右に曲がるというのが最短のルートである。というか、今までこのルートしか通ったことがない。この坂を下るのは平日の通勤時間か、スキマ時間に買い出しに行くときか、友人とどこかへ出かけるため駅を使う時くらい。そのどれもが時間に余裕はないシチュエーションだ。最短ルートをとること以外、思い浮かばなかった。

 

しかし、今日は違う。

 

少しでも長く外にいたかった。

 

この太陽がまだ残っているこの時間に。

 

その気持ちが僕に新しい発見をさせた。

 

大通りに出る少し手前、そこにある十字路を右に曲がると、その先に一つの階段があったのだ。階段の先の道は見えず、そのまま空につながっている。

 

自分が住んでいる街の、どこに繋がるかわからない階段。

 

僕はワクワクした。

 

見知らぬ街のそれは不安や恐怖の対象でしかないのに、自分の住んでいる街という安心感がそれを拭い去ると、そこにはロマンが残った。

 

僕は半歩通り過ぎかけた足を戻して、その階段を進む。

 

 

階段を上ると1軒の家がそこにはあった。

 

"ロマン"はその軒下にいた。

 

1匹の猫である。

 

 

それは、会社から帰ってくる時間にいつもスーパーの近くの公園にいる猫だった。

 

そいつはいつも公園の出口の逆U字型をした車止めの下にいた。決まってその場所だった。

 

遊歩道の出口。

 

明らかにそこを通ろうとする人を妨害する意図があるとしか思えない。

 

僕は人間様の偉大さを見せつけようと思いっきり近づいてやるのだが、それは微動だにせず、蔑みの一瞥を加えるだけだった。

 

僕の人間としての尊厳はいつも傷つけられた。

 

 

ところが今日は様子が違う。

 

見知らぬ家の軒下で用意されたと思われるエサを食べていた。ムシャムシャと。

 

飼い猫だったらしい。それか地域猫か。

 

いずれにせよ、そこにいつものふてぶてしさはなく、目の前のご飯を無心で食らいつくその猫は、どこか間抜けで、どこか愛嬌のあるただのキティーであった。

 

その家の前を通り過ぎたあと、僕は何だか心のトゲが一つ取れたような気持ちがした。

 

間もなく、いつもの大通りに出た。

 

 

スーパーでは4日分の食材を買った。平日の買い出しは水曜日だけと決めている。一人暮らしと言っても、1日三食が4日分、計12食の食材が入った袋は両手にズッシリと重い。

 

いつの間にか空が薄暗くなっていた。

 

遠くには、午前中の豪雨の犯人であろう大きな暗い雲の塊があり、太陽がその外縁をオレンジ色に縁どっている。

 

それはまさしく僕の知る夕方だった。

 

何時間スーパーにいたんだろうか。

 

そんな気持ちになった。

 

 

公園の近くを通ると、"ロマン"が定位置に戻っていた。

 

いつものふてぶてしさも一緒に。

 

僕は足をとめて、心の中で語りかける。

 

「君はもう"元"ロマンだな」

 

"元"ロマンはいつものような蔑みの一瞥をくれて、これを承諾した。