迎春記

― しがないゲイの小噺 ―

君の名は"元"ロマン

在宅勤務になってから、毎朝ふとんを干すというのが日課になった。このときルーフバルコニーから見る朝の景色が私のお気に入りだった。高台にあるこの家から見る景色には、眼前に遮るものは何もなく、まだひんやりとした朝の空気を、聞こえてくる小鳥のさえずりもそのままに胸いっぱい深呼吸をすると、眠気が全身の毛穴から一緒に抜けていった。

しかし、今朝はそれどころではなかった。すごい雨が降っていたからだ。雷光が地鳴りを伴って空を割り、雨は網戸を貫いて窓ガラスを叩いた。私は今日が土曜日だということを良いことに、ダラダラとベットに転がり続けることを決め込み、やがて寝ること自体に疲れを感じ始めて、仕方なくソロソロと起き出した。いつの間にか空は晴れ上がっていて、彼氏からの「今から多摩川走りに行ってくる」というLINE通知に気付くと、ふいに自分も外に出なければという焦燥感に駆られた。時計を見ると午後の4時半。私はスーパーに買い物に出かけることにした。

外に出るとふーっと水の匂いがした。外を漂っていた全ての匂いが洗い流された後の匂い。何だろ。滝の裏側を歩いているような、そんな匂いだった。太陽の煌めきは位置が違うだけで、朝のような爽やかさを持っていた。

スーパーへは坂を下り切って大通りに出たあと、右に曲がったところにある。いつも通り迎えば5分ほどの距離だが、太陽がまだ残っているこの時間に少しでも長く外にいたいという気持ちが私に新しい発見をさせた。大通りに出る少し手前、そこにある十字路を右に曲がると、その先に一つの階段があったのだ。階段の先の道は見えず、そのまま空につながっている。自分が住んでいる街の、どこに繋がるかわからない階段に、私はワクワクした。見知らぬ街のそれは不安や恐怖の対象でしかないのに、自分の住んでいる街という安心感がそれを拭い去ると、そこにはロマンが残った。私は半歩通り過ぎかけた足を戻して、その階段を進む。階段を上ると1軒の家がそこにはあり、"ロマン"はその軒下にいた。

1匹の猫である。

それは会社から帰ってくる時間に、いつもスーパーの近くの公園にいる猫だ。そいつはいつも決まって公園の出口の逆U字型をした車止めの下にいた。遊歩道の出口。明らかにそこを通ろうとする人を妨害しようとする意志を感じる位置だった。私は人間様の偉大さを見せつけようと思いっきり近づいてやるのだが、それは決して微動だにせず、蔑みの一瞥を加えるだけだった。

ところが今日は様子が違う。見知らぬ家の軒下で用意されたと思われるエサを食べていた。地域猫だったのか。むしゃむしゃと一心にご飯を食べるその様子には、そこにいつものふてぶてしさはなく、どこか間抜けで、どこか愛嬌さえあった。その家の前を通り過ぎたあと、僕は何だか心のトゲが一つ取れたような気持ちがした。

スーパーを出た時、空が薄暗くなっていた。遠くには、午前中の豪雨の犯人であろう大きな暗い雲の塊があり、太陽がその外縁をオレンジ色に縁どっている。それはまさしく僕の知る夕方だった。右手には4日分の食材がズッシリと重い。何時間スーパーにいたんだろうか。そんな気分になった。帰る途中、公園の近くを通ると、"ロマン"がいつもの定位置に戻っていた。いつものふてぶてしさも一緒に。私もいつも通り、隣をすり抜けるように通りすぎた。ふと何気なく振り返るって見ると、"元"ロマンもまた、私を見ていた。