小学生の時は学年が上がるにつれて、体育の授業が嫌いになっていった。
低学年の頃のことはあまり覚えていない。
だけどその頃はまだ、僕の中における体育というものの位置づけが、その他の科目、例えば算数と同じところにあったとは思う。先生に言われたことを言われた通りにやっていれば良かった。計算問題を解くのと同じような心持ちで、グラウンドを走り、鉄棒で逆上がりをすることができた。そこに不安やプレッシャーはなく、むしろ楽しんでさえいたと思う。
しかし、学年が上がるとその様子が変わってきた。
それまでは、親鳥の後を付いていくヒヨコの様に、みんなが一か所にひと塊になって固まっていることができた。親鳥が進めば進み、止まれば止まる。誰かが道路を横断しきれずに取り残されてしまったら、親鳥が止まり、みんなが待っていてくれる。道路を走る車さえ止まって、遅れたヒヨコの横断を見守ってくれる。不幸にも車の運転手が気が付かない場合でさえ、もしかしたら勇敢な他者が助けてくれるかもしれない。どこかのワニみたいに。
そうやって、僕たちは学校や社会から丁重に保護をされて生活ができた。
しかし、学年が上がり、それぞれが"親離れ"する年ごろになると、集団を形成していたそれぞれのヒヨコたちは、徐々に自分で自分の世話をしなければならなくなった。
すると様々な分野で"差"というものが生まれてくる。
算数はそれが顕著な科目の一つだ。
計算する数字の桁が増えると少しずつ集団が縦に伸び始め、分数の掛け算・割り算が始まると、それまで四則演算を単純なリンゴやみかんの創造や分配で乗り越えてきた集団が完全に切り離された。
人間と言うものは、幸か不幸か、その個体差を「自覚」してしまう生き物である。
そして、僕が集団から遥かに遅れていることを自覚した分野。それが「体育」だった。
きっかけはサッカーの授業が始まったことだった。
そこで僕は、自分は足でボールを扱うということが苦手なのだということを自覚した。小さい頃から少年サッカーをやっていたような友人を抜いた残りの集団の中でも、僕は飛び切りの下手くそだったからだ。
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授業の最初に2人1組になってのパス練習があった。縦に長く距離を取った列が、グラウンドのズラリと並ぶその様子は、さながらボウリング場に並ぶレーンのようであった。
僕が慎重に蹴り出したボールは、重すぎるボウリングの球を投げた時の様にのろのろともどかしいスピードで転がり、相手に届く。隣のレーンでは軽快な打撃音でパスが繰り返されている。焦る。しかし、そんな焦りから注意を怠ると、ガターも仕切りもないそのボウリング場では、僕のボールは2つ、3つレーンを平気で飛び越えて行った。僕の相手がレーンのピンデッキからうんざりした声を上げる。僕は大声で謝った。
試合はなるともっとひどい。その時のことについては昔ブログにも書いた。
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厄介であったのは、その頃にはもう僕の中で「男子は運動ができるものだ」という刷り込みが完了していたことにある。
はっきりとそう言われて育ったわけではない。しかしそれは、親の会話の節々であったり、テレビアニメでの男女の描き方であったり、そうした断片的な情報が集まって大きなレンズとなり、僕の思考にバイアスをかけていた。
だからサッカーの授業は、そんな"あるべき像"と自分との乖離を目の当たりにする地獄のような授業であった。
もちろん、逆境を乗り越えるためにサッカーの練習をすれば良かったのかもしれない。しかし、正五角形と正六角形が張り合わされた白黒の球体を寄ってたかって蹴り回し、守護神らしき者が立ちふさがる枠の中に、その四肢の隙間から滑り込ませるあの遊戯を、僕はどうしても楽しいとは思えなかった。僕はその地獄を耐え忍ぶことを選んだ。
サッカーに限らず、体育でやる球技はこれに同じ。
だから、球技の比率が大きくなるにつれて、体育の授業が嫌いになっていった。
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そんな僕がそんな地獄の「体育」を無事に耐え忍ぶことができたのは、球技の他に「持久走」の授業もあったからだ。それはスポーツテストの前に数回だけやる授業であったが、僕はこの授業が好きだった。
走る動作と言うのは、実に簡単な連続動作である。
右足を踏み込んで体を宙に浮かせ、左足で着地、そして今度は左足で踏み込んで体を宙に浮かせ、右足で着地。それを、ただただ繰り返せばよい。
足が相手をする母なる大地は、地球が球体であるがために、ある曲率をもってこれを迎え撃つのだが、ちっぽけな我々人間にとってそれはネグリジブルであり、万有引力の法則によればその力の方向も、同じグラウンド内でいる限り地球の中心に向かって一定であった。
つまり、パスをするたびに速度や回転を変えてやって来るボールに比べて、はるかに単純明快な相手なのである。
僕の運動神経が扱えるのはこれが限界であった。
持久走で周りに付いていくために必要なものは我慢だけである。どんなに疲れがたまって来ても、右足と左足を交互に繰り出す動作を緩めなければ良い。
僕は必死に我慢した。
決して楽しいとは思わなかった。むしろ辛さしかなかった。授業が終わったときには、心臓がバクバクし、足はガクガクになった。
けれど、自分がその授業で集団に後れを取らなかったことに気が付くと、サッカーの授業で削られた自尊心を埋め合わせられる心地よさを感じた。その感覚はいつしか「好き」という形で僕の心に刻み込まれた。
走るということは、僕にとって体育という授業を耐え忍ぶための、唯一の「拠り所」であった。それは急流の川の中で僕がしがみつけるようにたたずむ、一塊の静かな岩のように。
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『走ることについて語るときに僕の語ること』によれば、村上春樹にとっての走ることはこうだ。
〈走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。〉
こう語るように、本書では走ることに関するたくさんのメタファー、つまり暗喩が登場する。
〈走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。〉
〈考えてみれば、このような観点は小説家という職業にも、あてはめられるかもしれない。〉
〈これは日々のジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。〉
〈走るのは、スピーチなんかを暗記する作業に向いているような気がする。〉
小説における描写においてメタファーが有用であるように、仕事や恋愛、その他すべての生活において、メタファーを想起させるもの(例えば趣味のようなもの)を持っているというのは非常に有効だ。メタファーは異なる点同士を結ぶ懸け橋である。メタファーにより異なる経験の間で気づきが共有され、一方で学んだことが他方で転用できる。
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学生時代が終わって、自発的に走ることはなくなっていたが、最近ランニングを再開している。マラソンのレースにも出るようになった。
いつの間にか、僕の中でも走ることが仕事や恋愛の時に頭をよぎる"メタファー"となり始めている。仕事や恋愛で躓いたとき、「ランニングで調子が悪い時はこうするよな」というような観点から打開策を見つけてきた。
もし、皆さんの中にも「そういえば昔これ好きだったよな」というものがあれば、ぜひもう一度始めてみるのはいかがだろうか。幼い頃の、つまりまだ自分のパラダイムに濁りや偏りが少ない頃に見つけた「好き」の中には、自分の生活のメタファーになるようなものが見つかるかもしれないから。
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