迎春記

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BUTTER【首都圏連続不審死事件】

死刑囚ブロガーの「木嶋佳苗」を覚えていますか?『首都圏連続不審死事件』。それが木嶋の起こした事件に付けられた名前だ。当時それなりに話題になっていたから、覚えている人も多いかもしれない。念のため、簡単に事件の概要を説明しておく。

『首都圏連続不審死事件』

2009年。埼玉県富士見市のコインパーキングに駐車中のレンタカーから、当時41歳の男性の遺体が見つかった。死因は、練炭による一酸化炭素中毒。一見、自殺かと思われた。しかし、自殺にしては不審な点が多すぎる。車に鍵がかかっていたのにも関わらず鍵が無い。火をつけたマッチはあるのに箱が無い。練炭に触れたはずの遺体の手が炭で汚れていない、遺体から睡眠薬の成分が検出される、等々。これらのことから埼玉県警は、本件を殺人事件とみて捜査を開始する。まもなく捜査線上に浮上したのが、その男性と婚活サイトで知り合い、当時交際していた「木嶋佳苗」だった。さらに、婚活サイトで木嶋と知り合った複数の男性が、過去に不審な死を遂げていることが明らかになると、警察はこれらの男性に結婚をほのめかして近づき、金を詐取した後に殺害したとして、木嶋を殺人容疑で逮捕した。

木嶋佳苗の魅力

逮捕後、世間では木嶋の"ブログ"に注目が集まった。投稿されていたのは、高級外車のシートに小型犬が座った写真や高級食材を使った自作料理。大量のブランド品。男性から騙し取ったお金を使った彼女の優雅な暮らしぶりが明らかになったからだ。当然、世間では木嶋への非難の声が上がる。そんな非難の中に"好奇の色"も混じっていたのは、数多くの男を手玉に取ってきた木嶋が、決して若くも美しくもなかったからだろう。

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「木嶋佳苗」(引用:https://www.msn.com/ja-jp/news/national/)

「なぜ"あんな"木嶋が、婚活サイトで出会った男性を次々と騙すことができたのだろう?」。そんな世の中の好奇心に応えるように、ネット上では木嶋を題材にした様々な記事が書かれた。"天才結婚詐欺師に学ぶモテテク"、"モテるブス"、"木嶋佳苗劇場"。そんなタイトルを付けて。

また、木嶋の価値観に憧れや共感を抱いた同年代の女性たちも現れた。木嶋の裁判の傍聴をしようと裁判所に列をなした彼女たちを、メディアは「木嶋ガールズ」と呼んだ。

異例づくしの裁判

2012年の第一審。さいたま地方裁判所は検察側の主張を全面的に認め、木嶋に対し求刑通り「死刑判決」を言い渡した。この裁判が特徴的だったのは、裁判員裁判における、女性への「初めての死刑判決」ということだけではない。

「具体的には......テクニックというよりも本来持っている機能が高いということで」

「ですから、セックスの対価としてお金を受け取るのは、それなりの努力をしていたので、正当な報酬だと思っていました」

ゆっくりと優雅な口調で語られる際どい証言の数々。午前と午後の公判の間に木嶋が行った、前代未聞の「お色直し」。異例づくしの裁判だったのだ。木嶋は即日控訴。しかし、2014年。控訴審の東京高等裁判所も第一審の死刑判決を支持し、さらに2017年、最高裁への上告が棄却されると、木嶋の死刑が確定した。現在、木嶋は確定死刑囚として、東京拘置所に収監されている。

拘留中にブログを開設

木嶋の話題は、拘留中も事欠かなかった。2014年1月5日より、木嶋が拘置所で書いた文章を、支援者が代理公開する形でブログが開設されたのだ。『木嶋佳苗の拘置所日記』。こちらのブログはまだ残っている。お時間がある方は是非見ていただきたい。木嶋の直筆の文章が見られる。木嶋は達筆で、美しい日本語を使いこなした。被害者たちが、彼女とのやり取りの中で惹かれていった気持ちが、少しわかるような気もする。

3度の獄中結婚

さらに、婚活サイトでの木嶋の魔性ぶりを裏付けるかのように、彼女は獄中で3度も結婚している。2015年に支援者と、2016年には以前からの知り合いと、そして2018年は自分の手記を担当した新潮社のデスクと。手紙とアクリル板越しのやりとりだけで、3人もの男性に結婚を決意させた木嶋。やはり何か魅力を持っていたと認めざるを得ない。

『BUTTER』

そんな実際に起こったこの事件に着想を得たのが、柚木麻子の『BUTTER』である。ただし、これはあくまでフィクション作品だ。木嶋自身も「本作を自分の名前を使って宣伝するな」とブログで批判している。

本作で木嶋をモデルとした犯罪者として登場するのが「梶井真奈子」。通称"カジマナ"。そして、そのカジマナを取材するのが、本作の主人公で『週刊秀明』の記者である「町田里佳」だ。里佳は編集部の中で評判の女性記者だった。真実を突き詰めるために、自分が納得がいくまで粘り強く取材をする里佳の姿勢は、しっかりと結果も伴っていた。その評判は、『週刊秀明』初の女性デスクになるのではとも噂されるほど。そんな里佳は、ネタ元との取材前に化粧を落として向かう。スクープを掴むのに"女の武器"を使いたくなかったからだ。周りの女性記者の中には、有名議員と愛人関係になってネタを手に入れるといったやり方をする記者もいたが、そういった記者を里佳は軽蔑していた。里佳は女としてではなく、記者として認められたいという気持ちがあった。

だから、女の武器を余す処なく使って男を手玉に取った梶井への取材は、里佳を慄かせるものだった。梶井は、東京拘置所へ面会に来た里佳にこう語った。

「男の人をケアし、支え、温めることが神が女に与えた使命であり、それをまっとうすることで女はみんな美しくなれるのよ。いわば女神のような存在になれるの。...(中略)...女は男の力には決して敵わないってことをよく理解しなきゃ。少しも恥ずかしいことではないの。違いを認めて、彼らを許し、サポートする側に回れば、びっくりするほど自由で豊かな時間が待っているわ。自然の摂理に逆らうから、みんな苦しいのよ」

そんな梶井の価値観に、里佳は全く賛同できない。しかし、どこか梶井が"自由な"存在に見えた。

梶井は最初の面会で、里佳にある料理を食べるように指示する。バター醤油ご飯。数々の高級料理を食べてきたであろう梶井の口から出た、そのシンプルな料理に里佳は戸惑った。しかし、梶井の言う通りにバター醤油ご飯を作ると、里佳はその最初の一口ですっかりバターの虜になってしまう。

黄金色に輝く、信じられないほどコクのある、かすかに香ばしい豊かな波がご飯に絡みつき、里佳の身体を彼方へと押し流していく。

それからも面会の度に、梶井は里佳に料理を勧めた。バタークリームケーキ。フランス料理のフルコース。どれもバターがたっぷりと使われているものだった。梶井の指示に従うにつれて、増え始める里佳の体重。周りから体型の変化を指摘され、一度はバターたっぷりの料理を食べるのに躊躇するようになる里佳。しかし、そんな里佳に梶井はこう言い放つ。

「ダイエットほど無意味でくだらなく、知性とかけはなれた行為はありません」

「男性は本来、ふくよかで豊満な女性が好きです」

「だから、本物の男の人が女性本来のグラマラスな美を理解できるように、本物のフランス料理はちゃんとたっぷりバターを使うのよ」

里佳は梶井の放つ"自由さ"の源が、この男と女に対する価値観だと理解した。梶井は解放されているのだ。

女は痩せていなければお話にならない、と物心ついた時から誰もが社会にすり込まれている。

そんな世間の足枷から。

「この腕も胸もお尻も、すべて私の好きなものがたっぷり詰まっているの」

里佳は梶井に勧められる料理を食べ続けた。ガーリックバターライス。塩バターラーメン。カトルカール。里佳の体重は絶対に超えまいとしていた50kgの壁を超え、次の55kgの壁も超えた。バターの魅力に取り憑かれるにつれて、里佳は「梶井は本当に殺人などしていないのではないか」とさえ思うようになった。被害者たちが勝手に自殺したのではないかと。梶井への興味は、いつしか「憧れ」に近いものになっていたのだ。

そんな里佳の変化を、学生時代からの親友も心配する。

「いくらなんでも肩入れしすぎじゃない?死んだ男たちが全員、梶井の生活についていけなくなって体調や精神状態を崩して勝手に死んだなんて、まさか本気で考えているんじゃないでしょうね。ねぇ、彼女が無実だっていいたいわけ?」

それでも里佳は梶井への取材を止めない。しかし、里佳の取材は決して盲目的なものではなかった。里佳は梶井との関係が深まるにつれて、梶井の言動と振る舞いとの間にある矛盾に気付き始めていたのだ。捨て身の取材の末に、ついに梶井の本当の姿を知る里佳。梶井の語る強烈な価値観は、欲しくても手に入らなかった"あるもの"から目を逸らすため、彼女自身が作り上げた「虚像」であったのだ。そして、これまでネットやメディアに作られてきた"カジマナ"のイメージを根本から覆す、里佳のあの特集記事が『週刊秀明』に掲載される。

この記事で紹介した本

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

  • 作者:柚木 麻子
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 文庫