迎春記

― しがないゲイの小噺 ―

マルチタスクができない

僕はマルチタスクがとても苦手。もしマルチタスクができたら、同じ時間で複数の作業が進められるんだから、さぞ気持ち良いんだろうなと思うんだけれど、これが全然だめ。全く上手くいかない。この前なんか危うく命を落とすところだったんだから。大げさだと思うかもしれないけれど、本当の話です。どういうことかと言うと、こう。

先日、仕事が割と早く終わったので、家で珍しく晩御飯を食べることができた(夕飯は会社でコンビニ飯のことが多い)。食べ終わったとき、時間はまだ21時を少し過ぎたくらい。平日のこの時間に、この状態まで持ってこられるのは嬉しい。よし、今日は湯舟につかろう。そう思って、浴室へ行って、風呂の栓を閉め、壁にある「ふろ自動」ボタンを押した。

「追い炊き機能」のある物件に住むのが学生の頃からの夢だった。お金の無い学生時代、物件を探すのに一番最初に妥協して捨ててきた条件だったから。28歳の時に、ついに夢が叶った。ようやく社会人になった......ような気がする。

そのときに抱き合わせで付いてきたのが「自動お湯張り機能」だ。ボタン一つでお湯張りが始まり、設定された水位までお湯が溜まると、「お風呂が沸きました」というアナウンスと共に、3和音くらいの軽快なメロディが鳴る。朝のアラームとは反対に、僕がこの部屋で一番好きな電子音だ。僕の水位の設定は10段階の6。ボタンを押してから10分ほどでお湯が溜まる。

手持ち無沙汰な10分間。読書して待とうか。今読んでいる湊かなえの『花の鎖』が佳境に入ったところ。できれば今日中に読み切りたい。...だけど、10分後に集中を切らされたくない。もっとどっぷり"湊ワールド"に入り込みたい。じゃ、読書以外に今日やらないといけないことを済ませてしまおう。LINEの通知は......無し。Twitterのタイムラインはさっき見たばかり。......そうだ!歯磨きだ!歯磨きを済ませてしまおう。洗面台は浴室の隣にある。動線もばっちり。

この10分という時間も実に絶妙だった。もう少しで磨き終えるかなと言うタイミングで、あの嬉しいメロディが鳴った。いつもより音がきれいな気がする。でも正直に言うと、もう少しだけ磨きたかった。このまえ歯医者に行った際に磨き残しを注意された、上の両サイドの一番奥。あそこはもう数ストロークやっておかなければならない。そこでひらめいた。今のうちにシャワーを出しておこう。僕の家のシャワーは、出してから水からお湯へ変わるまでに長めのラグがある。この時間を利用すれば良い。この日の僕は冴えていた。こんな高効率なアイデアを思いつくなんて、1年に片手で数える日数しかないだろう。勢い良く蛇口を回す。まだ服を着ている自分にかからないよう、シャワーヘッドを浴槽側へ向けるという注意も抜かりない。さて、ここからロスタイム。時間は十数秒。歯ブラシを奥歯へ運ぶ。磨き残しを注意されたその日に、ヘッドが細いタイプの歯ブラシに買い替えていた。おかげで奥歯に無理なく毛先が当たる。数回ヘッドを揺らしたところで、歯周ポケットからプラークが掻き出されるのを感じた。やっぱり。やっておいて良かった。ほっと肩の力が抜けると同時に、開けておいた浴室のドアから湿り気のある暖かな空気を感じた。どうやらお湯が出始めた様子。完璧だ。ジグソーパズルの最後のピースが嵌ったときのような気持ちよさを感じる。僕は急いで歯ブラシを洗い、口に水を含ませると、口をゆすぎながら服を脱ぎ、浴室へ飛び込んだ。顔を少し上に傾けて、暖かなお湯を顔面から浴びる。最高。体内にあった疲れの粒子が全身の毛穴から流れ出ていく。風呂とは汚れを落とすものではなく、疲れを取るものだということをこの時知った。

しかし、すぐに異変に気が付いた。息が...吸えない...!顔にかかるシャワーで鼻呼吸は封じられている。しかし、口には歯磨き後に口をゆすぐための水が含まれていた。

......

...ッブ、ブハァァ!!

顔を上に傾けていたせいで、口から吐き出された冷たい水を全て顔面で受け止めることになった。僕は、静かにシャワーを止めた。文字通り冷や水をかけられたような気持ちだった。ふと、その日の午後、納品書類に上下逆さまに検収印を押してしまったときのことがフラッシュバックしてきた。最悪。それまですべてが順調だったのに。まるでマリオカートでスター状態が解除された瞬間に赤甲羅をぶつけられたような気分だった。やっぱりマルチタスクなんてするんじゃなかった。

もし僕がマルチタスクが得意な人間だったなら。きっと冷静にシャワーを止めることができたと思う。もしくは顔を下に傾けて口の水を吐き出した。でも僕は、そのどちらもできなかった。パニックだったのだ。シャワーを浴びる+口をゆすぐという単なる日常動作のマルチタスクですら逼迫してしまった僕のCPUは、息が吸えないという突然の割り込みにクラッシュした。結果、人間の生命維持という最も原始的な緊急措置によって、僕は天に向かって水を吹き出す形となった。

"マルチタスクをしてはならない"

それがこの経験における僕の学びである。

というわけだから、僕はなるべく仕事でマルチタスクをしないようにしています。でも、そんな僕にもできるマルチタスクがある。それが「風呂に入りながら本を読む」ということだ。ただし、「小説」はだめ。面白い小説はついつい世界に入り込んでしまって、気が付いたらのぼせてしまうし、つまらない小説だと、眠くなって本を浴槽に落としてしまう。お風呂で読むなら「エッセイ」に限る。

僕はブログを書き始めて以来、いろんな作家さんのエッセイをお風呂で読んでいる。ブログの参考にしようと思って。よしもとばななの『すばらしい日々』は何気ない日常の大切さに気が付かされたし、森博嗣の『〇〇〇〇のクリーム』シリーズは、"僕は反省をしたことがない。そんな暇があったら対策を練る"みたいな学のある森先生ならではの高尚な気づきをご教授頂いた。エッセイは1話数ページだから、いつでも区切り良く止められる。まさにお風呂での読書にぴったりだ。そんな僕の一番お気に入りのエッセイが、村上春樹の『村上ラヂオ』シリーズ。全3巻ある。

『村上ラヂオ』

ここに載っている話は、雑誌「anan」で毎週、合計3年間にわたって連載されたものをそれぞれ1冊にしたもの。トピックがとにかく日常的。そして面白い。NHKラジオに出てきた円周率おじさん、リンゴの気持ち、柿ピーの比率問題、等々。去年の11月くらいから、湯舟を溜めた日はこのエッセイを5話読み進めるのが習慣になって、昨日ようやく読み終わった。というわけで、皆さんもお風呂のお供にいかがでしょうか?面白いですよ。3冊全部読んだけど、少なくとも眠くなって浴槽に落とすことはなかったから。

この記事で紹介した本

村上ラヂオ (新潮文庫)

村上ラヂオ (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2003/06/28
  • メディア: 文庫
 
村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)