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『金閣寺』のあらすじ&感想【三島由紀夫】

年を取るにつれて年末年始に地元で遊ぶ友人が少なくなり、持て余す時間が多くなってきました。でも1年を通して、こんなに時間のある機会は他に無いので、「今年の年末は普段は読まないような本を読もう」と思い、三島由紀夫の『金閣寺』を読みました。

あらすじ

主人公は、京都の東北にある小さな寺で生まれた少年「溝口」。生まれながら吃音症であった彼は、周りから"吃りの坊主"とからかわれ、引っ込み思案な少年であった。父親の死後、溝口はその遺言に従って父親の修行僧時代の友人だった金閣寺の住職の弟子となる。ゆくゆくは金閣の跡継ぎとなってほしいという両親の期待を背負って。

初めて見る金閣は<古い黒ずんだ小っぽけな三階建てにすぎなかった>。<こんなに美しくないものだろうか>と思う溝口。しかし、そんな金閣に溝口はやがて心酔していくことになる。なぜか。それは彼が生きた時代背景にある。

世は太平洋戦争末期。いつ空襲で自分が死んでしまうかわからない時代。金閣だって明日には燃えて灰になるかもしれない時代。この時代においては、吃音症である“醜い”自分も、美しい金閣も平等に扱われた。それが溝口には嬉しかったのである。<美と私とを結ぶ媒立(なかだち)がみつかったのだ>と。だから終戦の日に、そんな金閣が空襲で焼け落ちることもなく、変わらず美しい姿でしんと屹立している姿に、<金閣と私との関係はたたれたんだ>と疎外感を感じ絶望する。戦後、物資不足に世の中が混沌としていく一方で、溝口に訪れた金閣との規則正しい日々は、その疎外感を日に日に強めていった。

溝口のそんな疎外感を決定的にしたのが、金閣の幻想による「色欲からの隔絶」だろう。女と枕を交わす際、溝口はどうしても金閣の幻想を思い浮かべてしまうのだ。金閣の絶対的な美を前に、興醒めをしてしまう溝口。そんな溝口の気後れを感じて、冷め果てた蔑みの白い眼差を向ける女。女との間でそんなことが繰り返されるうちに、金閣によってもたらされてきた疎外感は憎悪へと変わっていった。<「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」>

やがて、自分の周りのもの全てから逃げ出したいと金閣から飛び出す溝口。そして、行く宛もなく故郷の近くの港町を放浪している時、ついにその考えが頭に浮かんでしまう。<『金閣をやかねばならぬ』>。最初はただの思いつきだった。しかし、『金閣を焼けば』と想像した時、溝口の中で何かが解放される感覚があった。これまで隔離されてきた世の中に対して、自分の手で変動をもたらすことができる喜びがあった。溝口の中で次第に決意が固まっていく。もちろん迷いも生まれた。解放された溝口にとっては、あの美しい金閣を焼かないでおくという選択肢を取れるような気もしていたからである。

来たる1950年7月1日。現実の世界では金閣寺放火事件が起こった運命の日。果たして、溝口は本当に金閣に火を放ってしまうのか。

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美しい日本語で有名な三島由紀夫。抽象的な表現が多くて、正直正確な意味を捉えられていない部分も多かったんですかが、読んでいると何となく「溝口」がどういう気持ちなのか、その感情が頭で再現されるような気分になりました。まだ他にも気になっている作品(『仮面の告白』『潮騒』あたり)があるので、時間を見つけて読んでみようと思います。